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エストニアの歴史(ロシアの支配~20世紀)

ロシアの支配

18世紀初頭の「大北方戦争」でスウェーデンはピョートル大帝のロシアに敗れ、エストニアはロシアの版図に入りました。

長い念願だったバルト海への窓口を手に入れたピョートル大帝は、エストニアにほど近いイングリアにサンクトペテルブルクを建設し、ロシア帝国の首都とします。しかし、ドイツ貴族の支配は引き続き認められ、レヴァル(タリン)のハンザ都市としての特権も維持されました。



エストニア人としての民族意識が高まったのは、19世紀に入ってからのことです。西欧で普及した民族的ロマン主義の影響を受け、1862年にはフェールマンとクロイツヴァルドが国民叙事詩「カレヴィポエグ」を出版しました。

「カレヴィポエグ」は、エストニア神話の英雄、「カレヴィボエグ」の冒険談を各地から収集してまとめた叙事詩です。 フィンランドの叙事詩「カレワラ」にも影響を受けています。

1869年には民族高揚運動として、「歌の祭典」が開かれました。エストニアでは伝承の多くが民謡の形で伝わっているため、歌うことは重要な民族文化の表現手段とされました。



20世紀

そして、1918年2月24日、エストニアはロシア革命の混乱の中、共和国として独立を宣言します。しかし、新生ソヴィエト連邦は独立を認めず、2年間の独立戦争を戦わなければなりませんでした。

この「エストニア自由戦争」はエストニアの勝利に終わり、1920年2月の「タルトゥ条約」で、ソ連はついにエストニアの主権を認めます。

しかし、共和国の独立は20年しか続きませんでした。

1939年にヒトラーとスターリンが結んだ「独ソ不可侵条約」で、ドイツとソ連との間に国境線が引かれ、エストニアは勝手にソ連の一部とされてしまったのです。

その後ヒトラーは不可侵条約を破ってソ連に侵攻し、エストニアまで進軍しました。1941年から44年までは、エストニアはナチス・ドイツの一部でした。

ドイツの敗北後、エストニアは再びソ連に併合されます。この際、エストニア人やバルト・ドイツ人の多くが逃亡または逮捕・抑留され、エストニアの人口は激減しました。



1988年、タリンの歌の原で行われた集会をきっかけに独立運動が広がりました。1990年の選挙では独立派が勝利、1991年には国民投票で独立の支持が確認されました。

独立運動と並行してソ連との交渉も進み、1991年8月20日、ついにエストニア共和国が復活しました。