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タルトゥ

エストニア第二の都市・タルトゥ(Tartu)は、タリンの南180kmにあり、400年の歴史を持つエストニア最古の大学、ドルパット大学(タルトゥ大学)があります。タルトゥの人々は、「タリンが政治経済の首都なら、タルトゥはエストニア文化の首都だ」といいます。

町の発祥はタリンよりも早く、11世紀からルーシ(ロシア)との交易が行われていました。その頃、キエフ・ルーシの大公であり、初めてルーシの成文法を編纂したことで知られるヤロスラフ1世が砦を築いたと記されています。

その後リヴォニア帯剣騎士団が進出してきますが、それを「氷上の決戦」で打ち破ったノヴゴロド大公、アレクサンドル・ネフスキーの勢力に征服されます。

しかし結局はカトリックの司教領となり、バルト・ドイツ人の町として発展し、1280年には「ドルパット(Dorpat)」という名前で、ハンザ同盟の加盟都市になりました。



17世紀は戦乱の時代で、リヴォニア戦争で騎士団が消滅するとポーランド・リトアニア連合の領土となり、その後のスウェーデン・ポーランド戦争によってスウェーデン領になるなど、支配者が次々と入れ替わります。

そんな中、1632年にはスウェーデン王のグスタフ・アドルフがドルパット大学を設立。学問の町としての歴史が始まります。

「バルト帝国」を築いたスウェーデンは大北方戦争でピョートル大帝に敗れ、タルトゥを含むリヴォニアは、1721年にロシア帝国領となります。

ロシア帝国はタルトゥでは一般住宅として石造の建物を建てることを禁じたため、街の建物のほとんどは木造でした。そのため1775年の大火災では、町のほとんどが焼けてしまいました。当局はその後禁令を撤回し、今に残る石造の家並みが形成されます。

19世紀のタルトゥではエストニア人協会が設立され、エストニア民族主義運動の中心となりました。最初の「歌の祭典」が開催されたのもタルトゥです。

ロシア革命後はソ連との独立戦争を戦い、1920年に独立を果たした講和条約は、ここタルトゥで締結されました。

1939年の独ソ不可侵条約で独立を失うとソ連に対する抵抗運動が起きますが、ソ連軍の攻撃で町は大きな被害を受けます。

そして、戦後にはソ連軍の空軍基地ができ、外国人の立ち入りが禁止されました。

タルトゥには近世のバロック様式、ネオクラシック様式の建築が多く、大学の町らしい知的な印象を与えます。

一方でソ連統治の名残もあり、ロシア系住民が多い町でもあります。


タルトゥの地図 - エストニア名所図会



主な見どころの多くは、「ラエコヤ広場」やタルトゥ大学がある川沿いの旧市街と、大聖堂がある西側の「トーメの丘」に集中しています。新市街の中心は、旧市街の南東です。この位置関係はタリンに似ていますね。

アクセス

タリンからタルトゥまでは、バスで2時間半ほど。バスターミナルは新市街の中心部に、タルトゥ駅は新市街の西側にあります。