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山の手南西部(トームペア城)

「台所を覗く塔」からKomandandi tee通りを西に進むと、Toompea通りとの交差点に出ます。これを右折して坂を登りきると国会議事堂やアレクサンダー・ネフスキー大聖堂がある「山の手」の中枢部です。

しかしいきなりそこに行っても、エストニア屈指の要害だった「トームペア城」の本来の姿を見ることはできません。そこで、いったん交差点を直進し、南西側から城を見上げてみましょう。



タリン旧市街・トームペア南西部の地図 - エストニア名所図会





城壁と「のっぽのヘルマン」

トームペア城南側の城壁に沿ってFalgi tee通りの坂道を下って行くと、やがて城壁の西面が現れます。この城壁からそびえ立つ塔が、14世紀に建てられた「のっぽのヘルマン(Pikk Hermann)」です。

高さ50.2メートルの塔はエストニアの権力の象徴であり、常に支配者の旗が掲げられてきました。現在は、毎朝日の出の時間に、エストニア共和国国旗が掲揚されています。

このトームペアの丘には9世紀に木造の砦ができ、土着勢力の拠点になっていました。13世紀にデンマーク王・ヴァルデマー2世が苦戦の末に陥落させてから石の城壁が築かれ、その後もリヴォニア騎士団やスウェーデン、ロシア帝国と支配者が交代する度に増改築が繰り返されました。

現在の形になったのは18世紀後半ですが、この辺りから見る城壁は15世紀頃の姿を留めています。



国会議事堂

さっきの交差点に戻ってToompea通りを左折、坂を登りきると、大きな広場に出ます。「山の手」のへそに当たるロッシ広場で、左手に見えるピンク色の建物が「トームペア城」の本丸です。

この王宮のように優雅な建物は、18世紀後半にロシア帝国の女帝、エカテリーナ2世の命令で建てられました。規模や色が違うとはいえ、同じ時期に建設されたサンクトペテルブルクの冬宮(現在のエルミタージュ美術館)と同じバロック様式です。

ロシア帝国時代は知事官邸として使われ、現在は国会議事堂になっています。

ここからは「のっぽのヘルマン」はほとんど見えません。一般的にはこの建物が「トームペア城」とされていますが、もし難攻不落の城塞を期待してこの広場にやってきたら、拍子抜けしたことでしょう。



アレクサンドル・ネフスキー大聖堂

国会議事堂に向かい合うロシア正教教会は、帝政ロシア時代にツァーリの権威を誇示した「アレクサンダー・ネフスキー大聖堂」です。

建設が始まったのは19世紀末です。時のツァーリ、アレクサンドル3世がエストニア人の民族運動を抑えるために建造を命じました。

祀られているのは、13世紀のノヴゴロド大公、聖アレクサンドル・ネヴスキーです。

ネヴスキー大公は1242年、エストニアとロシアの国境にあるペイプシ湖で、ノヴゴロド征服を狙うドイツ騎士団を「氷上の戦い」として知られる決戦で破り、北方十字軍の東進を食い止めたことで知られています。

ここはかつてマルティン・ルターの像があった場所でもあり、ロシア帝国のドイツに対する対抗意識が伺えます。

完成は1901年のこと。ロシア帝国が消滅するわずか16年前でした。ロシア革命後、独立を果たしたエストニア人たちは「国の象徴であるトームペアにロシアの聖堂は不釣り合いだ」として聖堂を取り壊そうとしますが、ロシア系住民の反発で実現しませんでした。

この話はソ連からの独立後もくすぶりましたが、現在では建築としての価値を評価する声の方が強くなっています。

設計したのはサンクトペテルブルクの代表的な建築家、ミハイル・プレオブラゼンスキー。内部は黄金に輝くイコノスタスやイコン、モザイク壁画で装飾されています。

タマネギ型のドームには11の鐘があり、そのひとつは重さは15トンもあり、北欧最大級です。

入ってすぐの右側の壁には、日露戦争の戦死者を追悼するプレートがかけられています。1904年9月、ニコライ2世に見送られてタリン(レーヴェリ)の港を出港したバルチック艦隊(第二太平洋艦隊)は苦難の航海の末、翌年5月の対馬沖海戦でほぼ全滅し、5000名近くが日本海の藻屑と消えました。戦死者の中には徴用されたエストニア人の水兵も少なくなかったそうです。同じくロシアの支配下にあったフィンランドの人々は海戦の結果を聞いて歓喜したと言われていますが、エストニア人の感情はもっと複雑だったかも知れません。

住所:Lossiplats 10番地

開館時間(5月~9月):
午前8時~午後7時(日曜~金曜)
午前8時~午後8時(土曜)